2008年10月28日

その9 中川秀成の正室

虎姫とは

  戦国・織豊と群雄が割拠した時代、女たちはどうしてもその陰に隠れがちです。戦いに勝った秀吉は虎姫の嫁ぎ先を決めます。その相手は、虎姫の父盛政により自害に追い込まれた中川清秀の二男秀成だった。虎姫、秀成はもとより、中川家中の戸惑いはいかばかりだったでしょうか。
 虎姫は慶長15年(1610)7人目の子供を産んだ日に、この出産が原因で京都屋敷で享年37歳(?)で亡くなりました。
 秀成は兄秀政の戦死により家督を継ぐことになり、ほどなく三木城(兵庫県三木市)から岡城(大分県竹田市)に移封になります。かつては天下の三堅城のひとつに数えられ、別名を「臥牛城」といわれ、滝廉太郎の名曲『荒城の月』を生んだ古城として知られています。

 しかしながら、次のような逸話が残されています。

 時は天正11年(1583)。虎姫の父佐久間盛政は、賤ヶ岳の戦いで敵方の将中川清秀を討ちます。しかし、秀吉と柴田勝家の戦いは秀吉方の勝利に終わり、や佐久間盛政は捕らえられ、京都に護送、斬首になります。
 宇治川のほとりで潔く刑を待つ盛政とそれを見つめる清秀の子・秀成。
 秀吉は、まだ15歳にも満たない秀成に、「これがお前の父・清秀を殺した盛政だ」と言って会わせます。それに対し秀成は、「私はこの者を憎いとは思いません。戦場での勝ち負けは世の常。盛政殿は武勇に優れたお方でございます」と返答します。それを聞いた佐久間盛政は処刑の直前、「なんと立派な中川家のご子息か。こんな方にわが愛する娘を娶らせることができれば…」と言い残してこの世を去ります。
 やがて秀吉は盛政の遺言通り、娘の虎姫を秀成のもとに嫁がせます。宿敵の娘である虎姫(秀成の6歳も年上)ではありますが、夫婦仲はいたって良かったようで、四男三女の子宝に恵まれています。
 ところが夫清秀を盛政に殺された秀成の母・性寿院の心中は割り切れぬ思いでいっぱいです。同じように中川家の家臣たちにとって盛政の娘虎姫は憎んでも余りある存在です。
 その後豊後岡城六万六千石に移封となった秀成ですが、恨みある敵将の娘を藩主夫人として敬わなければならない家臣たちの複雑な心を気遣ってか、生涯一度も虎姫を岡城に連れてくることはなかったということです。
 慶長15年(1610)、虎姫は岡城を自分の目で見ることなく、また悲願であった佐久間家の再興を見届けることもなくこの世を去ります。
 つらく淋しい思いをさせた虎姫へのせめてもの想いとして、秀成は嫡子に虎姫の父・佐久間盛政から一字をとって久盛と命名します。
  また秀成は7人目の子供内記に佐久間家を継がせ虎姫の悲願を果たします、。今日に続く佐久間家です。 後に藩主となった久盛は、もう一つの悲願である、佐久間盛政の菩提寺を虎姫の死から34年後の寛永21年(1644)を建立しています。寺の名は盛政の法名「英叟晟雄」から英と雄の二字をとって「英雄寺」と名付けました。ぼたんで有名な竹田市の英雄寺です。
 戦国時代に生まれ、悲運の生涯を送った虎姫。しかし夫秀成の愛情に包まれていた虎姫の人生は、当時としては不幸なものではなかったかもしれません。

昭和39年、京都誓願寺にあった虎姫の墓は、死後、350年余を経て英雄寺にほど近い碧雲寺に移されました。なお英雄寺本堂には、秀成・虎姫の遺愛の品や佐久間盛政・虎姫・久盛の親子三代の位牌が安置されており、今も中川家と佐久間家の恩讐を越えた絆を物語っています。。
posted by ミッキー at 10:05| Comment(0) | TrackBack(0) | ネット小説 中川家の人々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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