2009年01月03日

その17 岡藩中川家11代と井伊家

中川 久教(なかがわ ひさのり)は、豊後岡藩の第11代藩主。
井伊直弼の兄にあたる。
井伊 直弼(いい なおすけ)は、近江彦根藩の第13代藩主。桜田門外の変で暗殺された江戸幕府の大老である。

中川久教は、寛政12年(1800年)7月1日、近江彦根藩主・井伊直中の七男として生まれる。
文化12年(1815年)1月に第10代藩主・中川久貴と正室・満の娘、育の婿養子となり、6月の久貴の隠居で家督を継いで藩主となる。12月16日には従五位下、修理大夫に叙任する。
文化14年(1817年)から幕命による手伝い普請をはじめ、文政6年(1823年)の大旱魃などにより藩財政が困窮した。
このため、文政7年(1824年)から倹約令を出して財政再建に務めるが、文政11年(1828年)、天保3年(1832年)、天保6年(1835年)、天保7年(1836年)なども旱魃や風雨による被害に悩まされ、財政は悪化の一途をたどっている。

天保11年(1840年)9月28日に死去。享年41。後を婿養子の中川久昭が継いだ。

井伊 直弼
「桜田門外の変」で命を落とした幕末の大老・井伊直弼は文化12年(1815)10月25日に彦根藩第11代藩主・井伊直中の十四男として生まれました。普通ならこんな下の方で産まれた子が藩を継ぐことはあり得ないわけで、直弼もずっと部屋住みの身だったのですが、兄達がどんどん他へ養子へ出てしまった後、兄で藩を継いだ直亮に子ができなかったため弘化3年(1846)兄の養子となり、4年後兄の死に伴って彦根藩35万石の当主となりました。
彦根藩は徳川家康の四天王の一人井伊直政の子孫の家柄であるため何人もの大老を出しており、江戸時代に任命された12名の大老の内、実に5人が井伊家です。

井伊直弼は、堀田正睦の後政権を担当すると、外国奉行を設置すると共に、万一どこかの国と総力戦になった時の用心のため、各大名に外国製の武器を購入するように推奨しますが、結果的にはこの武器が皮肉にも数年後の官軍の主力となります。
更に、強権を発動(安政の大獄)、各地の攘夷派のリーダーを次々と逮捕、開国反対派の公家には謹慎させ、橋本左内・吉田松陰らを処刑します。
これに対して反発した水戸藩士17名と薩摩藩士1名は、一応藩を脱藩した上で、安政7年(1860)3月3日早朝、江戸城の近くの愛宕神社に集結し、上巳の節句のため登城しようとしていた井伊直弼の行列を桜田門外で襲撃して、この命を奪いました。享年46歳。

しかし当時の公式記録としては、「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」となっている。これは譜代筆頭井伊家の御家断絶と、水戸藩への敵討ちといった争乱の激化を防ぐための配慮である。
井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑には、命日が「三月二十八日」と刻まれている。

岡藩11代藩主中川久教の養女・12代藩主中川久昭の正室栄子
伊予大洲藩の第10代藩主加藤泰済娘である。
また加藤泰済の正室は寛政の改革で有名な老中・松平定信の娘である。

大洲藩(おおずはん)は勤王の気風が高く、幕末は早くから勤王で藩論が一致していた。
このため勤王藩として全国的に有名で、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでも小藩ながら活躍した。
坂本龍馬が運用したことで知られる蒸気船・いろは丸は大洲藩の所有であり、大洲藩より坂本龍馬に貸与していたものである。

posted by ミッキー at 14:39| Comment(0) | TrackBack(0) | ネット小説 中川家の人々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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